この対談は1993年、OVA「エイトマンAFTER」発売の頃に行われました(未発表)。

桑田さんは和御魂で私は荒御魂

平井 桑田さんと最初にお会いしたのが一九六三年ですから、ちょうど三十年……。
桑田 そうなんですね。
平井 『8マン』が何十年ぶりかで復活して……もうご覧になりましたか?
桑田 はい、一応観ました。
平井 実写の方は観てないんだけれども、アニメの『エイトマンAFTER』がすごくおもしろくて……。
桑田 テンポが現代的でね。
平井 やっぱり昔はモノクロでしたからね。あのあとカラーになったんですけれども。
桑田 時代がどんどん変わるとともに、感覚も変わっていくんだなあなんて、つくづく感じましたね、あれを見てて。
平井 『8マン』はアメリカに渡って向こうのテレビで放映されましたから、だいぶ影響を与えたんですよね。『ザ・フラッシュ』なんていう超音速で走るスーパー・ヒーローがコミックに登場したりしてますけれど。『ロボ・コップ』なんかも『8マン』の影響をそのまんまという感じで、もう本当に仕掛けがおんなじです。だから二つに分けて、片っぽが『ザ・フラッシュ』という超音速で走るヒーローになり、片っぽがスーパー・ロボットの警官に、と分解されましたけどね。
 桑田さんはもう漫画はおやめになっちゃったようですね。
桑田 いえいえ、そんなことはないんですけれども、とりあえず今は、何といいますか……勉強中といいますか、例の精神の内側の問題の。自分が勉強したことをまとめたものを本にしている、そういう段階です。いずれは喩え話にしないと表現できないものがあるかなあ、なんて思ってます。論文みたいなものばっか書いていたんじゃ堅苦しいですし、読んでくれる人がいないし。
平井 般若心経の話とか、拝見しました。
桑田 ありがとうございます。
平井 私は桑田さんと『8マン』のあとにやった『エリート』あたりから精神世界に入っていって、それからどんどんどんどんやってきました(笑)。
桑田 あのあたり、私がもう少し――その世界をちらっとでもわかっていれば、もう少し深みのあるものができたのに、残念だなと思うんですけどね。
平井 やっぱり当時のものはどうしても観念的だったので、書いていてもそれほど実感があったわけじゃありませんですからね。神という存在とか、霊的な能力とか、書いていても実感自体はなかったですね。ただ私の場合には、五感を超えた能力というのはいろいろありますけれども――透視とか、念動力とか、そういうものとは異質で、そのあと私が「言霊(ことだま)」と呼んでいたようなものになってきて……。「言霊」っていうのは、私がスピーカーとして使われているという感じでして、精神の深奥から現れて、私の口なり手なりを通じて何かを書き記して去っていくという感じのものですからね。ですから当時からそういう現象はもちろんあったわけで、ただ意識していなかったわけですよね。自分が書いている、創っているという意識の方が強いですから。ですからSFという人工的な小説世界にまず入って、それからさらに精神世界に入っていったわけで……。
 桑田さんとやった作品では『エリート』が最初でしたね。
桑田 あれにはっきりと表れてきましたね、そうした内面的なものが。
平井 『エリート』はもうはっきりと、あとで私が「ハルマゲドン」と呼んでた世界なんですね。悪の超人が登場しましたからね。善と悪の対決という図式がそのまま『エリート』という作品を構成している。あれなんかいま読んでもハッとするところがいっぱいありますね。
桑田 あれはすごいですよ。本当の話、もう一回描き直したいくらい(笑)。いまもも一回描き直したら、もっともっと深みのある話ができると思いますね。
平井 ああいう作品世界を桑田さんと組んでやって、そのあと桑田さんは独自の精神世界に入っていかれた。私も、言霊というものを通じて入ってきました、文字通り。完全に入ってきましたね。
桑田 言霊に関する本を書いたばっかりなので、あとで一冊持っていってください(笑)。言霊の本は他にもいっぱい出ているみたいですけれど、言霊学と言霊そのものとは、ちょっと趣が違うように思いますね。
平井 言霊学(げんれいがく)っていうのはありますけれども、私が使っている意味の言霊というのは、全然違ったものですね。
桑田 そうでしょうね。
平井 古来からの言霊っていうのは「五・七・五」の定型を使って息吹(いぶ)くわけですね。そうすると口寄せのようにして神の言葉が出てくる。それを一般的に言霊って呼んでるんですけれど。私の場合はそういうものじゃ全然ありません。小説を書いてきたので、小説を通じて出てくる。自分が考えもしなかったような世界が広がってくる、というものですね。こういう言霊っていうのは今までの伝統的なものからまったく隔絶しているので、一般的な概念で捉えられるとなんかちぐはぐな感じになってしまいますね。
桑田 太占(ふとまに)に繋がったもんだと思うんですけどね、言霊の一番元の意味合いみたいなものは。言葉にどうしても表現できないようなものが全部入っているように感じるんですけれど。
平井 太占という言葉も伝統があるものですから、すでにきっちりと規定されている学問的なものでしょ、内包しているものがね。私が行っている太占とかは、どうも違うような気がするんですよね、一般的に神霊学をやっている方々とは。それはそれでちっともかまわないし、別にそういう方々と関わりあってやっていることではない。しかも私がやっているのは小説という世界ですから、すごく自由なんですよ。
 私は思うんですけれど、宗教には組織が必ずついてまわるでしょう? 本来、宗教と信仰は違うって、私は確信を持っているんですよ。宗教を通じて与えられる神は本当の神じゃないと思うんですよ。それは他人に色づけされたものであって、直接人間が神と向かいあって、それで神の気を受け取るというものじゃないですね。もうすでに自分が組織によってマインド・コントロールされて、受け取るものは教祖によって色づけされたものですから、本当の信仰とは違うと確信してるんです。
 神道というのは西欧的な概念の宗教とは違ったものですから、すごく自由な感じがしますね。私は今フリーな立場ですけれども、神道には非常に興味があります。特に古神道に、ですね。
桑田 宗教というと、なんとなく組織というものとつながってしまっていて、宗教が組織になると「組織のための宗教」になってしまって、本来のいちばん大切なものが逆立ちするような感じがしてしょうがないですけれどね。
平井 そうなんですよ。人間と神が個人的なチャンネルでコミュニケーションをおこなうというのが信仰だと思うんです。だから個人個人によって違うんですね。ある人は音楽によってチャンネルを開くかもしれないし、ある人は絵であり、ある人は文章である。またある人は自分の感情によってつながる場合もあると思うんですよ。だから一人一人が全部違うチャンネル、自分の固有のチャンネルを持っているんであって、それをひとしなみに一つの宗教で囲い込んで教祖の色づけを加えたら、もう本当の神との交感・交流というのはないですね。
 だから私はもうすぐに「宗教はおやめなさい」とみんなに言ってるんですよ。宗教にとらわれているかぎり本当の神との交流はないよと断言している。
桑田 なるほど。
平井 本当に自分のチャンネルを通じて神と交感したときには、ものすごい自由な波動が与えられますね。それは「神とともにある」という実感ですね。
桑田 そうですね。
 宗教というのは、とりあえず実感のわからない人が神に近づくための手段としてあるのかもしれないなと思ったことがありますね。教祖様が指をさしている方向をとりあえず見てね。だけども最終的に神というものは、自分自身の内容の、魂次元の実感の中から感じ取るものであって、意識を表に向けているあいだはどうしても観念の神になってしまって、実感の神には……。
平井 絶対ならないですよ。
桑田 これは私自身の感じですけれども、神というのは現実にいる低いレベルの自分の意識を通して自分自身の魂次元の意識が現れてきたときに、とりあえず神と感じるような気がするんですね。神と表現されるものはもともと魂次元とつながったものでしょう? だからまず自分の精神のいちばん奥の魂レベルの意識が現れてくることが、本物の神に近づく第一歩ではないかな、なんて考えたことがあるんですけどね。もしかして神と考えているのは自分自身の次元を超えた魂ではないかと思ったり。
 なにしろ目に見えないものだから、こうだと言い切れない部分がいっぱいありまして、頭の中で整理がつかないんですけどね。
平井 やっぱりその人の御霊(みたま)――という言葉を使えば、御霊によって千差万別ですよ。神っていうものの把握の仕方が人によって違うんですから。その意識の状態によって全然違うでしょう。非常に物質的なレベルから精神的な高みにまでわたって、もう一人一人違う。明らかにそうですね。自分の中に神を見るわけですから、物質に拘泥しているときの意識の状態と解放されたときの意識の状態ではまったく違うものですから。そのときに感じる神というものも、また変わってきますよね。金とか物とかすごく欲しいときの神様というのはどういうものかというと、自分に利益をもたらしてくれる存在。つまりこうやって手を合わせて祈って、どうか儲けさせてください、商売繁盛、家内安全……。このとき神は向こうにあるんですよ。向こうから恵みを垂れてくれる存在で、自分の中にはいないんです。
 物質的な欲望が希薄になるにしたがって、だんだん神の気が自分の中に生じてくる。そうするともう向こう側にいる存在じゃないわけ。拝まなくてすむ。何か恵んでくださいって物乞いをしなくてもいいんです。
桑田 そうですね。世の中の、神社に向かって手を合わせるときの拝みかたは根本的に間違っていると思いますね。私はあるときから神様におねだりするのをやめまして(笑)、目に見えない、対象のないものに対する感謝という、そんな感じの祈りになってきましたね。
「ありがたい」というのは不思議な言葉だな、「有り得難いこと」が起きるんだからそりゃあ「有り難い」んだと、そんな妙なことを考えたことがありますけれど、実際に自分自身がそうした命の内容の次元に意識を向け始めると、本当に有り得難いことがやたらと起きてくるし、気がつくというか……今まで見落としていたのかもしれないけれど、確かに起きてきますわね。そのときに「これはありがたい」というすごい奥深い実感がこみ上がってきて、本当に他人がいたら恥ずかしいと思うくらい涙が溢れるしね……。ああいうときの涙というのはまたなんだか心地いいんですね。ずいぶん心がひねくれてしまったと思ってたのに、おれのなかにもまだこんなに純粋なことを喜べる意識が残っていた、これもまたありがたいことだ――こんな感じなんですよ。
平井 私はあんまりありがたいと思わないで、神様が与える重荷にいつも「勘弁してくださいよ」って苦情を言ってるんです(笑)。だからその辺が「個人差があるな」って思いますね。
 桑田さんと私とは御魂の系統が違うから。桑田さんは和御魂(にぎみたま)で私は荒御魂(あらみたま)(笑)。
桑田 なんか前世でいろんなことがあって、この一生はそれをいろいろ修正しているんだろうと思うんですけれどね。
平井 修正というふうに受けとるところが和御魂ですね。
桑田 ああ、なるほど。
平井 私なんかこれから先にもっと乱暴なことを使命として負わされるという感じがあって、だから「もう勘弁してくださいよ」という気持ちになっちゃう。
桑田 なるほどねえ。
 私はここんところでやっと心が平和の方向に動きだしたという感じで、今まででいちばん内面的には落ち着いたなあ、というか、幸せだなあ――幸せという言葉はちょっとピンとこないけれども、ほかに言葉がないから。そういう感じがしますねえ。
平井 解放感というのは、いつもがんじがらめになっているだけあって、束の間与えられるとなんともいえない素晴らしさがありますね。
 私なんか物質的にも猛烈な圧力をいつもかけられているのを感じるんです。全身に鉄たがをはめられるような感じが、もう日常茶飯事ですから。いまでもすごい圧迫が加わっているのがわかります。
桑田 どういうものなんですか、具体的に言うと?
平井 不定愁訴というのがあるでしょう? 医学的な理由が何もないけれど、ものすごく辛い肉体的現象がいっぱい起こるという。胸をギュッと押しつけられているような状態というのは、例えばものすごく不安なこと、心配なこと、緊張感のあるときに感じますよね。そういうのを私はいつでも感じている。だけどもそれは不安や心配事とは関わりのない圧力・圧迫だというのがわかっているから平気なんですよ。いつも間断なくかけられているとね、その中で居眠りもできるようになりました。前だったら到底そうはいきません。もう跳び上がってうろうろ歩き回ってね。
 すごいですよ。例えばナイフでぐさぐさと刺されるような本当の痛みで、それは霊的感覚なんですよ。実際には傷はついていないんですが、霊体が傷を負わされるから、そういう痛みを肉体的にも覚えるんですね。
 不思議なもので般若心経なんてあげていると、突然咳が出てきたり、あるところまでいくとポロッと忘れちゃって(笑)、また元に戻ってやり直すと、同じところでまた忘れちゃう。そういうことってありません?
桑田 ときどきあります。何でもないところで突然一字忘れて「あれ、なんだったっけかな」と思うことがしょっちゅうありますよ。普段はっきり覚えているはずなのに。
平井 ねえ? 突然忘れちゃう。意識をキュッと引っぱられると突然度忘れしちゃう。ほとんど日常生活が務まらないほど度忘れがひどくなる。ふつうの場合だったら「ああ、ついにぼけたか」。そうじゃないっていうのがわかっているから平気なんです。
 それから、かゆくなる。からだ中が。それは本当のかゆみじゃないですね。霊的なかゆみだから、塩でこすってやるとすうっとなくなる。そういう形でね、しょっちゅう霊的プレッシャーをかけられてるんですよ。
桑田 それは何か一つの大きな目的みたいなものがあってのうえで、ですか?
平井 鍛えられているんじゃないかなあ? だからここでもう一度ステップ・アップして、もっとすごいことが起こるんじゃないかと思って(笑)、「勘弁してくれ」という気持ちですね。

何度自殺を試みても必ず邪魔が入る

平井 私が桑田さんのことですぐに思い出すのは、何度も何度も自殺しようとしてできなかったという話、前に桑田さんご自身からお聞きして……。あの話はすごかったですね。
桑田 不思議ですね、あれは(笑)。
 結局そうした思いがあったから神というものを見出したんだと思うんですけどね。もっとノホホンと暮らしていたら何かわけもわからないで一生を終わってしまうかもしれないけれど。そうは言っても、これから自殺をするんだ、自分の命をこれから絶つんだというときには、やっぱり相当緊張しますしね。別のことをいろいろ考えてしまいますし。
 若いときには「死ねばそれでいい、死んでしまえばあとには何もなしだ」と思っていたんですけど、ある程度歳をとってくると「死んだあとはどうなんだろう」と、そういうことを考え始めたんです。それで手掛かりはないけれども「命ってのは何かいなあ?」というところでもって、精神の内側に意識が向きだしたんだと思うんですけれど。未だに答えはないんですけれどね……。
平井 すさまじい話でしたね、自殺しようと思って……いちばん初めはガスでしたね?
桑田 最初はナイフでした。ガスはもっとあとで……何かの弾みで「もしかしたら」と思って。ガスってやっぱり危ないですからね、近所に迷惑をかける可能性もあるし。
平井 確か隣でガス漏れがしちゃって、消防車が来ちゃって……というんでしょう?
桑田 ああ、そんなことありましたねえ。よくご存じですね(笑)。
平井 だって桑田さんの口から聞いたんだもの。
桑田 そうでしたっけ?
平井 そうですよ(笑)。死のうと思ってたらそういことになって失敗しちゃって、気をそがれたけれども、気を取り直して今度は失敗しないようにしようっていうんで隙間に厳重に目張りか何かしたんですよね。
桑田 はあはあ。
平井 そういうことがあったでしょう?
桑田 そういえば、そんなことありましたねえ。
平井 そうしたらまた何か騒ぎが起こったんじゃなかったですか?
桑田 とにかく何をやっても必ず邪魔が入るんですよね。何か「生かされてるんだなあ」なんてあとで感じましたね。
平井 で、いよいよガスの栓を開いて出し始めたら、隣で刃物騒ぎがあって警察が来て……。
桑田 ああ、そうそう。ごちゃごちゃとうるさくなって。自殺するどころじゃなくなった(笑)。
平井 その次にお聞きしたのが、「今度こそ必ず死ぬぞ」と決心して山に登ったと。この人気(ひとけ)のない山なら必ず死ねるというんで、ナイフで胸をついたと。
桑田 それがいちばん最初なんです、十七歳のときで。
 胸をナイフでついたら、映画なんかで観てるとスッとすんなり刃が入るでしょう? 実際にやってみたら、すごい硬質のゴムでできた分厚い碁盤みたいなものにグイッとナイフを突き立てるのと変わらなくて、全然通らないんですね。刃が跳ね返ってしまうような感じで。考えてみたら刃を刺すのとからだが収縮するのと、呼吸がぴったり一致するわけで、通るもんじゃないですよ。あんなものは絶対よくないですね。もう辛い思いをするだけですし。
平井 …………(笑)。それで気絶してしまって、気がついてみると死んでない(笑)。起き上がってみると胸の前がすごく膨らんでいる。何が膨らんでいるのかと思うと、シャッの中に血がいっぱい溜まっていてジャーッとこぼれたという。それで死に損なってすごすごと山を下りて来た……。
桑田 そうそう。それが十七歳のときだったですね。そのとき睡眠薬を一緒に飲んでましてね。苦しむのは嫌だから睡眠薬を飲んでいれば眠ってるうちに出血多量で死ぬだろうと虫のいいことを考えたんですけれど、そうはいかなかったですね。出血したのが乾いて、シャツの布目を詰めたんじゃないですか。あとから出てきた血がダボーンと、それこそ洗面器一杯ほど溜まってましたもんね。
平井 それでも死ねないということで、ついに諦めたわけですよね。
桑田 そのうちに仕事が忙しくなってきてしまって……(笑)。もともと何がなんでも死のうということではなくて、やることがあって張り合いがあれば、それに一生懸命になりますしね。いちばん最初はそんなことをしているうちに『まぼろし探偵』だとか『月光仮面』が始まったし。その次は、もうそろそろなんて思っているうちに『8マン』が始まって忙しくなって。仕事を一生懸命やっているうちは自殺しようなんてことは考えませんわね。
平井 なるほどね。とにかく自殺しようとしては失敗した話を桑田さんからお聞きしたときに、「ああ、神様のお許しがなければ人間って死ねないんだな」と私は思ったんです。
桑田 どうもそうみたいですよ。
平井 人間には誰にでも使命というものがあって、それを果たすまでは人間って死なせてもらえないんだ、と。それはさっき私が言ったように、神と一対一のチャンネルで結ばれた契約ですから、契約を果たし終わらないと死なせてもらえない。
桑田 そうですね。最近つくづくそう思います。
 いちばん最後の自殺――これは未遂までもいかなかったけれど、それまで何回も失敗してるんだから、失敗する原因をあれこれ考えて。今までわからずにやってたから失敗したんで、今度はちゃんとわかったうえでやるんだから、邪魔も入らないし、絶対失敗するはずがない。もしも私を守ってくれている存在がいるとしたら、今度はどういう方法で私を救ってくれるんだろうか。それを試してやる、ってよくない考えだけど、それでやってみたわけですよ。
 そうしたら、これは本当におったまげたことが起こったんだけれども、意識もろとも持っていかれてしまった。別の世界へ持っていかれて、自殺の気持ちそのものを根こそぎ取られてしまった。これはおかしかったんですよ。天井から球体が下りてきて、頭の中がすぽっと包まれちゃったんですよ。すごい轟音が中に満ちてまして、血の流れる音を世界いっぱいに拡げたような轟音なんですよ。そうしたら何かじーんとしてきまして、「あ、神だ」「人だ」とかわけのわからんことをごちゃごちゃ考えているうちに頭がだんだん下がってきて、アラーの神を拝むようなポーズになって、何だかわけもわからずありがたくってね。感涙にむせんでましたけれども。それから三人霊体が現れていろんなことをしゃべってくれてましたけどね。
 まあいろんなことがあるうちにチチチチなんていうすがすがしい小鳥の声がしたんで、はっと見たら朝なんですよ。すごいさわやかな朝でね。「あれ、何してたんだ」「おれ今日死ぬはずだったんだ」なんて感じで(笑)。頭から根こそぎ目的を取られてしまって、まったく想像もつかない……。
平井 クリーニングされたんだ(笑)。
桑田 それからはそういう妙な嫌なものが現れなくなった。頭の中からも死を考えるというようなことが完全になくなってしまって……。
 あとは、ああ、死ななくてよかったと。とんでもない間違いなんですよね、自殺という行為は。
平井 お話を聞いたときから、「人間には寿命があるんだ。だから死ぬとか死なないとか、そんなことは気にしなくてもいいじゃないか」と思うようになりましたね。あれは何年くらい前だったか、もう二十年近く……。
桑田 そんなになりますかね。
平井 ちょうど桑田さんが精神世界に入ったころに、聞いた記憶があります。
桑田 昔、平井さんが「今いちばんやりがいのあること、楽しいことは仕事をしていることだ」と言われたんですよね。おれたちはまだ、その当時、そういう実感てのがわかんないわけですよ。仕事っていうのはひとつの作業であってね、苦痛があって当たり前だと思っていたから。それ以外の、私は飲んだくれみたいなことで楽しもうとしていたわけでしょ。ところがこの精神世界の仕事を始めて、それがわかったわけですよ。確かに作業としては辛いですよ、目は使うし肩は凝るしね。でも、じゃあこれを終わったら何をやりたいかというと、やっぱりこの仕事を続けていたい。仕事がいちばん楽しいということが、最近というか、この仕事を始めてやっとわかったんですね。ほかにやりたくないんですよ。どこかに遊びに行くったって、いや、それだったら家で仕事をしている方が楽しい。この仕事がなかったら私が生きている価値なんかどこにもない――そういう感じでもって「仕事が楽しい」という意味がよくわかったんですよ。
平井 それは桑田さんぐらい徹底して遊べば、それを突き抜けてくるものなんじゃないですか? あれだけの流行作家で、稼いだお金をぜんぶ遊んじゃったでしょう?
桑田 そうですね。
平井 あれだけ徹底的にやれば(笑)、もう残るものは仕事だけであって……。
 よく覚えているのは、飲みに連れていってもらって、どの店でも手の切れるような1万円札の新札をビッと出して払って。そういう人とはつきあいづらいですよね(笑)。代金が五百円でも一万円札で払う。それでお釣りをポケットに突っこんで次の店に行くでしょう? そうしたらまた一万円札でビッ。ポケットはお釣りの小銭でぎゅうぎゅう(笑)。すごい美学ですよね、あれは。なかなかできることじゃありませんよ(笑)。
桑田 今から考えてみると、自分の中にある貪欲さから離れたくて反作用が出ていたんだと思いますね。深い考えがあってのことじゃなくて、自然の反作用みたいなものが出ていたんじゃないかと思うんですよ。
 自分の中の貪欲さ――貪り、欲張り、嫉妬深さ、そういった不満というのは、自分自身でもわけのわからない幼児時代から続いてるものですから。意識の奥深いところにそういった不満というものが、解消しきれないままいっぱいあったと思うんですよ。それを抱えたまま大人になってきたんですが、どうも私の魂次元の感性とは違ってたらしい。
 不良少年というのは自分自身を振り返れないでしょう? 要するに不満の固まりだけもって、親に対して不満を持ったり世の中に対して不満を持ったり。根本の自分自身を見つめるということができないでしょう。私自身も自分がわからないうちに不満の精神を持って振り回して、それで勝手に苦しんでたんじゃないかと思うんですけれどね。それでも何か「守られてたんだなあ」ってつくづく思うんですよ。
平井 守り神がついてるんですよ。
桑田 般若心経を始めたころは、もうほんとうに、本当に完全に一文無しだったんですね。だから般若心経を書いてみようと思ったんですけれど、まだそのときは半信半疑、神仏の世界なんてほとんど信じてなかったんですよ。まったくの素人で仏教のことも何も知らないですよ。こんな素人がそんなものを書いて通用しなかったら完全にお手上げになってしまう。でもそのときに、神仏の世界が本当にあるのなら、どっちみち死のうと思ってんだから全部命を預けちゃおうと思ったんですよ。もしそのまま食えなかったら食えないまま、どっか山奥の谷川のところに座って朽ち果てればいいやって、そこまで覚悟を決めたら、そしたらちゃんと生かしてもらえた……。
平井 やっぱり最後のぎりぎりまでいかないと活路っていうのは開けないというところがありますよね。
桑田 そうですよねえ。
平井 桑田さんとは精神世界へのアプローチの方法が違うところもあると思うんですけれど、基本的には、追い詰められて棄てさせられるというところで共通しているような気がします。やっぱり追い詰められないと人間って棄てられませんね。
桑田 そうですねえ。もともと持っている素直ないい心で自然にすうっと入れる人っていうのはうらやましいなと思うけれど、私なんかどうも相当痛めつけられないと目が醒めないみたいな……。これも一つのめぐり、業(カルマ)なんですかね。
平井 というか、すうっと入れるというのは、それ自体で救われていて非常にいいですけれども、だったらそのレベルで止まってしまうんじゃないかっていう気もしますよ、もともと持っているものにプラスしないでね。もともとの御霊がよいと苦労しないですっと行けるんだったら、同じ次元でもって終始してしまうんじゃないか。だからもう徹底的に痛めつけられた方がかえっていいという場合だってありますよね。
 だからもううらやましがることはやめました。すうっと行ける人は行ける人でいいと。こっちは紆余曲折して、まあ登山をするような形で苦労しながらロッククライミングをやりますけれど。
 そういう境地を楽しめるようになればいいと思いますね。ものすごい試練を与えられることがありますよね、霊的に。そういうときにやっぱりめげちゃうんですよ。そんなときに「こういう境地を楽しむことがあってもいいんじゃないか」と、ふっと思うと、そこで楽になっちゃうんですね。本当に楽になるんですよ。すうっと苦しみが抜けていく。
 人間にとっていちばん何が大切なのかなあと思ったらユーモアだって気づいたんです。つまりユーモアっていうのは常に自分の苦しみを客観的に見て笑えるという境地なんで、笑った瞬間にふっと苦しみが去るんですよ。
 自分を笑いものにできた瞬間というのは、ものすごい解放感がありますね。そのときの苦しみというのは喩えようもないんだけれども、ものすごく努力して笑える自分を作る。それで救われるんだということが何度も実感としてわかりましたから。
桑田 なるほどねえ、ユーモアねえ。確かにそうだな。辛い苦しい状況に追いこまれても、最終的にブラック・ユーモアというような高度な笑いを作り出したりするんだからなあ。
平井 人間にとって笑いというのは本当に大切なものですね。これで毎日笑っていられればいいんですけれども、そうもいかずにね。一人で笑ってたら……(笑)。
桑田 それができれば幸せですね。
 最近絵のほうでも、やっと芸術の意味合いというものがわかってきましたよ。今までわからなかったもの。ただの職人として仕事をしてきましたもの。内側から出てくるもを描くのが本物だという。
 私、三十五、六歳ぐらいまで、完全に少年だったんですよ、精神がね。それは悪いという意味じゃなくて、子供の情熱をそのまま持っていただけで……。
平井 今はもう少し年齢が上がったと思っているんですか?(笑)
桑田 いやいや、上がってない。ただ気がついたというだけで。そういわれるとあわててしまって。よく聞いてくださいました(笑)。上がったわけじゃなくて、自分自身の幼児性だとか今まで見えていなかった部分に「ああ、おれは何も見えてなかったんだ」と、そこに気がついたというだけで。
平井 幼児性だなんて、幼児を馬鹿にしちゃあいけませんよ(笑)。チンパンジーは三歳児くらいの知能があるといいますが、三歳児といえばそれはもう大変なもので、人生の奥義を悟る力がありますものね。
桑田 まあ馬鹿にする気はありませんけどね(笑)。
平井 私はもう、自分は三歳児だと思ってますから(笑)。だんだん若くなってきて、零歳児までいっちゃう(笑)。
桑田 私はまあ、そこでもってだいぶ痛みを感じたもので、その痛みから逃れたいためにあれこれ七転八倒したんでしょうね。
平井 そうじゃないです。桑田さんは汚れた大人として出発したんですよ。そこから汚れない幼児に戻ってきた。
桑田 なるほど。そういう角度からも見られるわけだ。元に戻りつつあると。
平井 三歳児っていうのは天才ですよ。
桑田 三歳のころは純粋だったもんなあ。
平井 桑田さんはだんだん三歳児に近づきつつあるんですよ。清らかになって。
桑田 平井さんはいかがですか?
平井 私はひどいもんですよ、荒御魂だから(笑)。
桑田 大変なお役ですね(笑)。
(了)   

Information
桑田二郎先生の自伝「走れ!エイトマン」発売中。
筑摩書房・刊 1998.6.15


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