このインタビューは、1988年、『地球樹の女神』連載開始時に
「野性時代」に掲載されました。


光と時のペイブメント

世紀末、幽閉されていたさつりくの徒サタンが翼をひろげ、
生きとし生ける者たちをすべて葬り去ろうとしている。
なぜこの時代に平井和正は存在し、語り、情念を描き続けるのか――

ライフワークとしてのSF

――まず初めに先生が小説を書き始められたきっかけについて教えていただけますか。
平井 私は子供のころ、作文を書くというのが嫌で嫌でたまらなかったんです。自分の考えていることが、おりの中に追い込まれて囲い込まれてしまうという、そういう感覚がとっても嫌でね。自分が文章を書くことを職業にするなんていうこと自体、当時は考えもつかなかったことなんです。だって作文で一行書くのに脂汗流して苦しむという、情ない少年だったんですから。
 ところが、中学二年のときに、突如学校のノートに小説を書き始めて、一気せいに三○○枚ぐらいに達する処女長編『消えたX』を書き上げてしまったんですよ。その時に味わった、何とも言えない壮快な解放感というか充実感というか、それに取りつかれたとき、初めて私は、自分は将来作家になるんだと決心したんです。
――それはどういうお話なんですか。
平井 南極の地底に南極帝国というのが存在して、それを悪魔教の使徒たちが牛耳っている。で、世界制覇に乗り出してきてテロをやるんですけどね。そのテロのやり方がすごいんだ。全地球を脅迫する。全人類は悪魔教に改宗せよと迫る。さもなければ地球を破壊するっていってね。つまり、ハルマゲドン小説だったんですよ。
――中学二年の段階で、すでに宗教的なものに興味がおありになったというようなことは?
平井 全然ないですよ。当時私が興味があったのは、手塚治虫の漫画でね。手塚治虫の漫画に触発された部分というのは極めて強いと思うんですよ、この小説はね。ただ、手塚治虫がこういう話を書いているかというと全然書いてない。だからをして書いたというのとは全然違うというのははっきりわかりますね。
 つまり、こういう巨大な物語を書こうとしたときに手本になったのは手塚治虫の漫画しかなかったというわけです。『メトロポリス』とか、『来るべき世界』とかね。当時の小説には、そんな手塚治虫みたいなスケールのあるものってなかったんですね。やはりすごく触発されたことは、もうはっきり言えます。
 だから手塚治虫みたいな、ああいう巨大な物語を小説で書きたいと、心から思ったんです。自分がやっぱり絵はだめだから――書いたけどだめだったんですよ。(笑)石森(現・石ノ森)章太郎みたいな天才少年が同世代でもう活躍していたから、これはだめだと見切りをつけたんです。
――読んで単純におもしろい、エンターテイメントというものは、昔はどうしても、見下されて評価されない存在だったと思うんですけれども。
平井 やっぱり大衆文学なんていう言い方があったから。大衆文学というのは低級なものだとされていたんですよ。純文学はやっぱり純がついているんだからね。ピュアーなんだから。大衆文学なんていうのはせんの大衆が読むもので、非常にくだらないものだという評価を受けていたんです。でも私は全然そう思わなかったからね。手塚治虫の漫画を読んだときに、こんなに心を熱くさせて、心を広々とさせてくれるものは他にないじゃないかと思って、逆に純文学なんてカスみたいなもんだと本気で思ったものね。なおなんて、あんなのアホだと断定した。真剣にね。(笑)
――小説だけではなくて、たとえばそのころの新聞も高級なものと、大衆に与える低俗なもの、映画もまた純粋な日本文学を映像化したものと、娯楽の一つとしてつくったもの、と、分けてあったがゆえに、本当のエンターテイメントがどうしても見下されてきたという気がするんですが。
平井 日本はそうですよ。もともと娯楽作品というのがけいべつされる国ですからね。職人芸というのは蔑視されるしね。アマチュアみたいな、そういう連中がぎこちなく生硬な手法ででっち上げると褒められたり、権威主義という意味で非常にスノバリーな国民性がありますからね。
 いまみたいにエンターテイメントオンリーになると、私なんか逆に反発しましてね。売れればいいとか、そういう観点から経済活動によって書かれたものというのは、ろくなものがないですよ。やっぱりどんなものでも志がないとだめですね。本当にエンターテイメントをやるんだというのは志ですからね。はっきりと蔑視されている、一段も二段も下のもので、まともな人間がやるものではないと言われている分野に、わざわざ入り込んで、大人が読んだって十分におもしろい、すばらしいものなんだということを周知徹底するために、第一期のSF作家というのは懸命になって、マーケットのないところにマーケットを築いていったわけですよ。やっぱりそこには志がありましたよ。
 いまSFが売れるんだということで参入してくる作家とは、そもそも根底的な姿勢が違うんです。これは割りがいいぞというので始めるのと、これを一人前のものに仕立ててやるんだというのが違っているのはいちもくりょうぜんでしょう。あとは経済活動ですからね。志が失われたら、何だって堕落するものですよ。
――当時、SFというのはどういうものだったんですか。
平井 SFという名前はなかったんです。科学小説という言い方をしてました。手塚治虫の漫画は、何ていったかな、科学探偵漫画とか、科学冒険漫画とか、そういう言い方をしてましたね。概念としては、やはり手塚治虫が一番SFに近かったと思いますね。
――当然、社会ではあまり認められないものだったと思うんですけど。
平井 そうですね。『消えたX』を書いていたころの私は結構読書家だったんですけどね。やっぱり純文学というのは全然おもしろくなくて、つまらなかったという記憶がありますね。こんなの読んでもしょうがないということで、自分で書こうなんて一切思わなかったですね。自分が書きたいものは全然違うものだと。読んでおもしろいものが書きたい。それが出発点でした。
 あのころは将来自分が書いていくべき本というのをいつもいつも想像していたんです。自分の書いた本が何十冊も本棚に入っているところとか、本当に作家になった自分を非常に精密に想像してました。
 で、いま私はそういう作家になっているんですがね。本当に何百冊も本になってる。そういう自分を、つまり三五年後の自分を私は精密に想像して、中学の二年のときに初めて書いた小説がこの『消えたX』です。

夢のタイム・トリップ

――小説家平井和正の原点が『消えたX』なんですね。
平井 そうとも言えますし、その逆だとも言えます。
――と、言いますと?
平井 私も初めはこれが今回の『地球樹の女神』の元になっているんだと思っていたんですが、じつはそうではないんです。一番最初に書いた小説が、小説のスケールからいっても、物語のダイナミズムからいっても、そのあとに私が書いた小説のどれよりも、完成度が高いことにハッと気がついたんです。スケールの大きな小説で、しかも生まれて初めて書いた長編小説であるハルマゲドン・ストーリー、と考え合わせてみると、私が綿密に、将来こういう小説を書いて作家になるんだと想像したときに、私の意識はその夢という世界を通って未来ヘタイム・トリップしてね。三五年後に書いた未来の自分の小説を読んで、その記憶を夢を通して持ち帰ったんです。で、書いたのが、この小説だったんです。
――卵が先かニワトリが先かというジレンマに似ていますね。
平井 ええ、私としては、初めて書いた小説が、今まで書いた小説のどれにも増して完成度の高い、スケールの大きな小説だったということを考え合わせると、これはやはり将来の私の構想を少年の私が夢という通路を通って持ち帰ったに違いないというふうに確信したわけですよ。
 ちょっとややこしかったかもしれませんけれども、つまり、この物語自体は、いま私が書いている『地球樹の女神』というハルマゲドン・ストーリーが本当のものであって、中学二年のときに書いた『消えたX』は、それを先取りしたものだと、そういう結論に達したんです。
――なるほど。中学の二年のときから実際作家としての活動を始められるまでに同じような体験はなさいませんでしたか。
平井 全然ありません。そのあとは、私はハードボイルドに凝りまして、レイモンド・チャンドラーに入れ上げて、何とかああいう小説を書きたいと思って、大学二年のときまでずっとハードボイルドを必死に書いてました。SFというのは関心がなかったわけではないですが、自分が書こうとはまったく思わなかったんです。
 一九六○年に安保闘争がありまして、そのときに初めて私はSFを書き出したんですね。SFを書き出して、それ以来、私はSF以外の小説は一度も書いたことがないんです。それまでハードボイルドを書いて世に出るつもりでいたのが、安保の年に突然、また回路が切りかわってSFを書き始めた。だから中学二年のときから数えて三五年後に、ようやく本当の振り出しにたどり着いたわけなんです。この小説を書くために、私はいままで三五年費やしたんだと確信してます。
 ですからこの小説は、私が『幻魔大戦』とか、そういう非常にかいじゅうな、重い小説を書き始めて、もう精神的にも肉体的にも担えないほどに重い荷物になったものを、救ってくれているんです。ほっとしている。本当に楽しく書ける小説ですね。
――「野性時代」にご執筆いただくのは六年ぶりになるんですけれども、『幻魔大戦』のときの先生のお気持ちののり方と、今回の『地球樹の女神』のお気持ちののり方と、違うところはどこにありますか。
平井 主人公が十五歳の少年で、スーパー中学生なんですね。そういう意味で『ウルフガイ』のいぬがみあきら少年や、『幻魔大戦』のあずまじょうと違うノリがありますね。なんか楽しいノリですね。
――私も読んでいて、昔の少年雑誌で心をわくわくさせたものが、この作品にも感じられるんですけれども、それは先生にとっても同じ楽しさになっているんでしょうか。
平井 そうですね。主人公が本質的な意味で明るいところがあると思いますし、その明るさに私も救われている。書いていて非常にリラックスして書けるというところは、いままでの『ウルフガイ』や『幻魔大戦』とは全然違ったところですね。この小説を書くことによって、私自身が肉体的に非常に救われているという気がします。
 それにこの小説は、キャラクターがおもしろくて、いままで書いてきたキャラクターたちよりも、もう少し無責任でノンシャランな運中が多いので、書いていて楽ですね。思い詰めて深刻になるというところがあまりないものですから。
 私自身は非常に肉体的につらいところを切り抜けてきましたので、もう幻魔もウルフも、肉体的に到底書けない、これ以上書けば死んでしまう、命がないというところに救いの手が伸びてきたという感じがします。だから、キャラクターたちが明るいのも、物語が楽しいのも、やはりそういうことなんでしょうね。これは私にとっての騎兵隊であろうと。ピンチになった私を助けるために駆けつけてきた騎兵隊だと、そういう印象を持ってます。
――書けば書くほど気持ちが若返って、それでますます筆が進んでいくというのは、いままでの執筆とはまるで逆の方向ですね。
平井 そうですね。私はこの小説自体は、いままで書いてきた重い小説とは違うものにしたいと思っているわけです。だからこの小説では、あの『幻魔大戦』のような、ずっしりと重いことだまは来ないでほしいと、日々念じて書いてます。
 けれども、ハルマゲドン小説ですからね、たいへん巨大な重量級の物語ではあるんですよ。ただ、それをそのまままともに書いてしまうと『幻魔大戦』みたいな、ズシッとした、精神的にも肉体的にも持ちこたえられないような小説になってしまう。それをうまく浮上させるようなキャラクター、それから痛快なストーリー展開、そういうものに路線を切りかえてきたということだと思いますね。

植物の未知なる力

――その新しい路線の中で、ひとつ特徴的だと思ったのは、フィロデンドロンという植物が重要なキャラクターとして登場するところなんです。人間以外の、どこにでもある、一般に目にすることができる植物が重要なキャラクターとしての存在を占めるという点は、おもしろい発想だと思うんですが、これは何かお考えがあって。
平井 そうですね。このあたりはひらめいたというところですかね。前から私がそういうふうにいろいろ考えて、でっち上げたということではなく、向こうからひょっこりと飛び込んできたというところでしょうか。やっぱり言霊って、そういう性格を持ってますのでね。何ともいまの段階では言えませんね。
 ただ、いままで私が書いてきた宇宙と、ちょっと違う肌合いを持っていることは確かです。たとえば、霊的な天使であるとか、そういう存在とはちょっと違う。
 あのフィロデンドロンというのは、やっぱりもう一つの人類である植物の意識体なんですね。地球自体がひとつの巨大な意識体であって、それが宇宙とかかわりをもって、宇宙的植物園になっているというイメージなんです。
 いままで私が全然手がけてこなかった発想なんですね。そのへんはちょっと自分で書いていても興味深いんです。ただ、宇宙植物園というのはどういうふうになっているかというのは、今後書き進めてみないと、具体的には姿をあらわしてこないですね。
――このフィロデンドロン、実際に先生もご自宅にお持ちでいらっしゃるんですね。
平井 そうです。この小説を書き始めてから、私もフィロデンドロンとどうせいを始めましてね、一緒の部屋で暮らしてますけれども、ものすごく生育がよくて、いまは植物がそんなに生育する時期じゃないのに恐ろしい勢いで生長していますね。
 まあ、ちょっと不思議ですよ。何か、やっぱりよほど置かれている環境が気に入ったんだろうと思いますね。ですからうちのフィロデンドロンも“教授”と名前をつけているんです。
――先ほどの話に戻りますが、我々人間が気づいていない植物の不思議な力というものが、この作品の一つのテーマになっているんですね。
平井 ええ。私は植物には、すごい力があると信じてます。植物が地球上から姿を消すときは、人間も姿を消すときだと確信してます。ニューサイエンスなんかでも、いまやっと植物に関して、いろいろ研究が始まったばかりのところでしょう。
 まあ、今後次第にわかっていく分野でしょうけれども、人間というのは、まだ植物に関してほとんど知識がありませんからね。植物というのは、何かこうおとなしくして、何も動かないで、ボーッとしているようだけれども、植物人間というで使われているようなでくの坊ではないらしい。はっきりとした意識を持っているけれども、人間と波長が違うので、その考えていることや意識の状態がどういうものであるかというのが、今一つ人間にはぴんとこないらしいというところまではわかっているんですね。
 植物が地球に果たしている役割というのを考えると、植物がなかったら人類をはじめ、いわゆる動物というのは一切生存できないわけですからね。そういう意味では、植物こそ地球の母であるというふうに呼べると思います。私はべつにエコロジストでもないし、環境保護とか、そういうことを自分でやるという立場ではないんですけれども、やはり今後植物がクローズアップされてくる時代が、非常に近いところまできているのではないかと思います。
――『地球樹の女神』の中では、後藤由紀子がパソコンで“教授”と話ができるという設定になっておりますが、近い将来、これに近いところまで人間は到達できるでしょうか。
平井 これはフィクションですからね。特別な力を持った植物だったら、そのくらいはやってのける力があるんではないかというふうに、私は無責任に想像したんです。ただ、人間はそんなところまで考えたことはないので、コミュニケーションをとるにしても、ポリグラフみたいな非常に原始的なやり方でコミュニケーションをとっている段階ですからね。今後はもう少し高度になっていくかもしれませんね。
 植物というのは、やはり意識体として動物とまったく違う性質を持っているので、植物と交感するというのはなかなかむずかしいことだろうと思います。でも、森の中に入ると、人間というのは感じるものですよね、植物の意識を肌で感じる。安らぎを感じるというのは、植物の安らぎの波動を人間がキャッチするということでしょうね。

そしてラスト・ハルマゲドン

――最近、杉の花粉症という、植物の花粉で人間のアレルギーを引き起こす病気がクローズアップされていますけれども。それは植物から人間へのアピールと受け止めたらいいんでしょうか。それとも人間が植物とだんだん波長がずれてきていると受け取ったらいいんでしょうか。
平井 あれはもうはっきりしているんじゃないですか。大気汚染が非常に大きな要素ですよ。杉の花粉自体が近年、急に増えたわけではないんで、昔は杉の花粉症なんてなかったんですから。だから大気汚染のほうが深刻な問題であって、そこまでこじつけることはないんじゃないですか。自然がこれだけ破壊されているということ自体が大きな問題なんですよ。
 人間の肉体というのは、もう化学物質でもって非常に破壊されてますのでね。自然破壊というのは、自然だけが破壊されるんではなくて、人間の肉体も自然の一部ですから、同じように歩調を合わせて破壊されていくということのあらわれだと思うんです。だから、いま成人病が子供にまで及んでいるというのは、人類の先が長くないということをはっきりあらわしているわけですよ。人類の最後というのは、本当に間近に来ているんだな。
――それに対して、いま防御策みたいなものはないんでしょうか。
平井 ありませんね。だって人間の経済活動っていうのは、自然破壊によって支えられてるから、行き着くところまでは行き着く。そこまではやめないでしょうし、やめられないでしょう。だから人間の経済活動が終わったときに、はじめて終息するということですね。すなわち人間の絶滅です。そういう意味では、もう神という存在抜きには語れませんよ、これは。
――農薬とか化学物質を使わないものを口にすれば健康でいられるという発想が自然食ブームにもつながっていると思うんですけれども、そう簡単な問題ではないんですね。
平井 簡単な問題ではないですね、まったく。地球ぐるみもう破滅しかけてるという状況のなかで、ただ口に入れるものを、なるたけ毒のないものにしたって無理ですよね。そんなことで助かるわけはない。
 一番重大なことは、人間にはもうどうしようもないんだと自覚することです。この経済活動に支えられた全地球的規模の環境破壊、それから原子力発電所――この原発問題にしたって、地球上に原発というのはあふれかえってて、いつどんな形で大破局が来ても不思議はない。これは人間の手ではもう止められない。人間のえいじゃどうしようもないんだ。それがはっきりわかったときに、人間というのは初めて神という存在を思い出すんじゃないですかね。
 人間にはどうしようもないとき、そうなったとき必ず人間は「神様何とかしてください」って頼むものです。困ったときの神頼みと昔から言うでしょう。地球上のあらゆる人間が、そう叫び出すときがくるでしょうね。
――今、仮に原発を完全に廃止したら、まだ助かる道は残されるでしょうか。
平井 原発をやめれば助かるなんてことは絶対にないです。止められないですよ、それは。だって原発だけじゃないですからね。軍事用の原子力艦船を初め、核兵器はもうオーバーキルで、地球上に溢れていて、人間の力でそれを何とかするなんていうことは絶対にできない状態になってますからね。
 巨大な見えざる手が、この宇宙全体を支配する神の説諭というものは、いままで唯物主義では一切否定されているでしょう。人間の知恵で、人間の未来はどうにでもなるものだとそう思っている。そんなこと絶対に不可能だということが、もういまはみえみえになってきた。原発をいくらやめましょうなんて言ったって、もう手遅れなんですよ。とっくの昔に手遅れなんです。すでに最後の瞬間が迫っている。
 そのときに、人々が叫ぶ声はやっぱり「神様っ」っていう必死の叫び声になるでしょうね。そこまで行くんですよ。そこまで行かなきゃ助からないわけです。
――『地球樹の女神』で、その神の存在をうすうす感づいているのは、一話の段階ですと後藤由紀子だけ、明確な形でわかってないかもしれないけれども、感じて理解しようとはしている、と受け取れるんですが、それはフィロデンドロンを通して実際神に触れているんでしょうか。
平井 そうですね。フィロデンドロンというのは人間を超える巨大な意識が存在するというひとつの証明であるわけです。このヒロインの少女は、そういうものと密接にかかわり合っているので、自分が自分の力でやっているのではないということをはっきり知っているんですね。大きな力を自分が振るっているんではない、ただ、預けられているだけだということを本人がわかっていますから。
――まだ第一話では、神に対する悪魔に相当する、敵の存在が明らかにされてはいないんですけれども、それはいずれはっきり見えてくるものなんですね。
平井 ええ、楽園には蛇と呼ばれる存在が必ずかかわり合ってくるわけですよ。だから巨大な宇宙の植物園には必ず毒がある。その毒が必ず姿をあらわしてくるだろうということです。
――最後に読者に対して、これから先の簡単な予告と、第二話以降に期待を持たせるヒントを一言お願いしたいんですが。
平井 そうですね。サンライズ号の失跡は一つのきっかけでしかないんです。スーパークルーズが突然消滅した、いったいどこにあるのか。後藤由紀子という天才少女が南極にあると明言し、物笑いの種になる。
 やっぱり南極が最初の手掛かりでしょうね。南極をすべてが指差しているわけです。南極にいったい何があるのかというところを指示しているわけです。何かとっても奇怪なことが南極にはあるんですよ。
 まあ、ここから先は言霊次第だからね。言霊の働きにご期待くださいと言うしかないようだな。

(平井和正事務所にて) 

協力:角川書店
〈野性時代 1988年6月号掲載〉

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©Kazumasa Hirai, LUNATECH